02.接触

 昼の警察署は、喧騒に包まれていた。

 青年は、それを興味がなさそうに傍観している。

 積層鎧を着込んだ警察官たちが、金属同士が擦れ合って奏でる耳障りな音を立てながら廊下を闊歩していく。

 自分を連行した同種の存在から視線を逸らすと、今度は取調室の前に並べられた長椅子に扇情的な格好をした女性たちが座っている姿が目に入ってきた。

 組合に登録せず、無免許で行っている違法売春婦だ。

 倭国では免許売春は合法化されている。東京に於いては、南の朱嘴区の更に南端に置かれた経済特別区に在る娼館街でのみだ。

 その娼館街に置かれている組合に申請し、免許を交付されれば売春で自由に客を取ることができる。

 勿論、免許を所持していても娼館街から離れての活動は違法となり、東京の西に在るこの白露区で活動すれば彼女たちのように警察の世話になるが。

 その他にも、警官や犯罪者、一般の相談者が廊下を忙しなく行き交っている。

 それらを眺めていたが、退屈そうに溜息を吐いた青年は外へ出る。

 青年は凝った身体を解すように背伸びをし、天を仰ぐ。

 厚い雲で覆われ、今にも泣き出しそうな天気だった。梅雨入りとなって間もない時期、当然ともいえる天気。纏わりつく湿気が雨の到来を予言しているようだ。

 昨夜、警察に連行された青年は拘束され、先ほどまでしつこく尋問されていた。

 器物損壊や許可なき霊術の使用、登録をされていない霊術具の所持などをしつこく訴えられたが、正当防衛を主張した青年の意地が優った。

 結果、青年は厳重注意を受けただけに留まり、釈放されて繁華街の街路を歩いている。

「酷い目に遭ったなぁ……」

 誰に言うのでもなく、小さく呟いて昨夜殴打された左頬を撫でる。だが、そこにはそのような痕はない。そして、折れた奥歯も元に戻っていた。

 専門家である霊療士ほどではないが、青年は生体治療系霊術を扱うことができる。

 旅をしている間に覚えたものだが、折れた歯の治療もできるほどに上達していた。その腕で留置場に放り込まれている間に傷を治療したのである。

 倭国だけではないが、交通機関――都市間を結ぶ結界装甲列車や、強固な材質を用いた自動車専用高速道など――を使用せず、徒歩での一人旅というのは非常に危険な行為だ。

 野生の獣を始め、人に害を為す存在である魔堕、霊術士崩れの野盗など、挙げれば限がない。

 近年は、本来大陸の西に棲息する西方竜が、此処、極東の倭国でも多数の存在が確認されるようになり、より危険度が増している。

 そのような危険極まりない旅に於いて、多くの霊術の中でも生体治療系霊術は欠かせない存在だ。

 青年がこの霊術を身に付けたのも、そういった理由だ。

 彼は、一人旅を八年ほど続けている。殆ど無目的に、倭国の各地を渡り歩いている。

 今回東京に訪れたのも、観光目的に近い。

 倭国の東端に位置し、発展目覚しいこの都市は訪れる度に異なる表情を見せている。変わり往く街の変化を楽しんでいる節もあった。

 東京には今回で二度目、前回より八年もの月日が流れている。

 以前は東京の中心に在る黄央区にしか見られなかった高層建築物が、他の地区でも幾つか建てられているのが確認できる。勿論、変化はそれだけではないが。

 今も尚行われている変遷を、面白そうに眺めながら歩を進める青年。

 間の抜けた音が盛大に鳴ったのは、そのときだった。

 やや下方から聴こえてきた音は、自らの腹の虫だ。

 昨晩東京に辿り付き、勘違いで襲われてそのまま留置場に押し込められた所為で何も口にしていないのだから、無理もない。

 目の前にある飲食店から漏れ出る、食欲をそそる香ばしい香りも、一因となっている。

 今更ながら、留置場での扱いの酷さに青年は苛立たしさに顔を顰める。人権侵害も甚だしい扱いだった。

 生憎、生体治療系霊術でも空腹を癒すことはできない。ある程度、誤魔化すことはできるが。

 青年は餓えた食欲と空腹を満たす為、飲食店の扉をくぐった。



 入った飲食店――猫神亭は、繁華街の中ほどに構えていた。店主の趣味なのか、様々な猫の置物がそこ彼処に置かれた微笑ましい店だ。

『名は体を表す』という言葉があるが、この店が正にそうだった。そこら中、猫だらけだ。

 店内は然程広くは無く、六名ほどが一度に座れるテーブル席が四つ、七名が座れるカウンター席のみ。

 昼下がりの所為か、客も疎らで少ない席数でも空きが目立つ。

 現在の客は、カウンター席に着く作業着姿の中年男性と、入り口に最も近いテーブル席を占拠する男女四人組だけだ。仕切りに遮られて正確な容姿は確認できないが。

 店内を見物するように見渡していた青年をカウンター奥で洗い物をしている女性店員が見つけると、決して嫌味ではない愛想の良い笑みを浮かべて言った。

「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ」

 その言葉に甘えて青年はカウンター席に着こうと店内に進もうとしたとき、青年の視界の端にテーブル席に着く一行の姿が入る。

 四人の姿を確認した青年は、偶然一行の一人と目が合い、

「あ」

 と、思わず驚きの一言を漏らした。

 目が合ったのは、有名なブランド物――だと思われる――の紺色のスーツを着込んだ、亜麻色の長い髪が美しい女性。

 他の三人も、何事かと青年に視線を集める。

 女性と同じく、ブランド物のスーツを身に着けた、茶髪の男性。

 目だけは青年に向けて、目の前に出された料理の数々を黙々と胃に収めていく、露出が多い筋骨隆々とした浅黒い肌の男。

 男とは対照的に行儀良く、物静かに食事を摂る、長袖の蒼いシャツとジーンズ姿の銀髪の女性。

 昨夜、青年を襲撃した一行――正確には、襲撃した二名と制止した二名――だ。

「昨日はごめんね、二人とも反省してるから」

「気にしてませんよ。お陰で一晩ほど警察に厄介になれましたんで、宿代の節約になりました」

 大人の態度で接する青年だが、にこやかに遠回しの皮肉を口にする。

 どうやら警察に逮捕された事実は知らなかったのか、罰が悪そうな顔をして、次の行動に出た。

「本当にごめん。この通りっ」

 箸を置き、両手を合わせて頭を下げる。

 その姿を見て、可笑しさとちょっとした罪悪感が込み上げてきた青年は女性の謝罪を制止する。

「本当に気にしてませんよ。節約になったのも事実ですし」

「本当に?」

「本当です」

 青年の許しを受けた女性は、人の良い笑みを浮かべて胸を撫で下ろした。

「んじゃ、お詫びの意味も込めて、一緒に食べない? 勿論、お金はこっちで出すから」

「そう言うことなら喜んで」

 愛想ではない、本物の笑みを以て彼女の言葉に甘え、彼女によって引き出された椅子に座った。

 すかさず、女性店員が御絞りを持って現れる。青年が壁にかけられていた品書きから焼き魚定食を頼むと、一礼してカウンターの奥へと戻っていった。

「まずは自己紹介。私は光永霊術事務所の所長、光永薫。で、こっちが副所長の土倉雅臣」

「宜しく」

 薫と名乗った女性の左隣に座る灰色のスーツ姿の男――雅臣が、微笑を刻んで一言辞儀を述べて一礼する。彼に習って、青年も小さく頭を下げた。

 彼女が優れた霊術士であることは昨夜の一件で知ることはできたが、霊術事務所を取り仕切る存在だとは予想だにしていなかった。

「で、君の右隣に座ってる子が鳴神静ちゃん。その隣で食事に夢中になってるのがキムン・イペタム君」

 静は辞儀の為に頭を垂れたが、浅黒の肌の大男――キムンは全く目もくれずに目の前の食事に取り掛かっている。

 昨夜のことから、未だに彼に敵意を抱いているのだろう。

 尤も、それは青年も同じだ。彼ほどの意思ではないものの、良い感情ではない。

 そんな感情を表に出すよりも、ある疑問が口から湧いて出た。

「その名前、アイヌ人?」

「……だったらどうした?」

「いや、知り合いに居るんで」

 その答えに何のキムンは鼻を鳴らし、食事に戻る。

 疑問が湧いた理由の一つは、自分が知っているアイヌ人とは全く印象が異なったからだ。性格、服装、その他諸々。

「んじゃ、次はキミの番。名前は?」

「神名宗二朗です」

「歳は?」

「今年で二十八」

「出身は?」

「西京です」

「趣味は?」

「……釣りですけど、何時の間にお見合いに発展したんですか?」

「そんなんじゃないけど、普通気になるでしょ?」

「……普通は気にならんと思うが」

 機関銃のように質問してくる薫にツッコミを入れたのは雅臣。息が合っているように見えるのは、所長と副所長という間柄が為せる業だろうか。

 副所長のツッコミを物ともせずに、所長は更に質問を続ける。

「これから用事ある?」

「宿を取る程度ですけど」

「その後は?」

「特にありません。観光でもしようかと思ってます」

 それを聞いて瞳が妖しく輝いたように見えたのは、気のせいだろうか。

「実は、協力してほしいの」

 紡がれた言葉の響きに何か厭な予感が増大したものの、訊かずにはいられない、訊かなければいけない何か圧力のようなものも内包されている。

「……聞くだけは聞きましょう」

「ある仕事を抱えてるんだけど、私と雅臣は別件で動かなきゃいけなくなっちゃってね。任せようにも、昨日のこともあってこの子達だけじゃ少し不安だし。勿論、報酬は払うから」

「こんな男の力など必要ない。俺だけで充分だ」

「強がらないの。はっきり言って、相手のほうが実力も経験も上。だったら数で勝負しなきゃ。それと、静ちゃんを除け者にしない」

「私は別に構いませんけど」  薫は心配し、キムンは強がり、静はどちらにもついているようでついていない態度をとる。

 三者三様の言い分を黙って見ていた宗二朗は、同じく黙している雅臣に、

「……大変ですね」

 小さく声をかけると、

「……まぁ、な」

 雅臣が疲れが滲み出る声で返す。副所長も楽ではないと如実に語らせる声色で。

 そういった意味では、力になってやりたいと思う。

 そして、決断した。

「判りました、協力します。そろそろ路銀も底を尽きそうですしね」

 その言葉に、薫の顔が喜色で彩られる。対して、キムンの顔があからさまに厭な顔をする。やはり静の表情は揺るがなかったが。

 実際、彼の懐はもう少しで氷河期を迎えようとしていたのだから。

 快諾の言葉を受けて、薫は横に置いていた鞄から一枚の写真と数枚の書類を取り出してテーブルに広げる。

 写真には一人の男が写されている。よく言えば精悍な、悪く言えば厳つい顔の男だ。

 このような男性と間違えられたのかと思うと、宗二朗は少し落ち込んだ。

「目標は原木健三、三十四歳。北条商会の警備部に所属していた、霊術士協会にも登録されている高位霊術士。

 先日、自身が警備していた宝石店を襲撃し、同僚二名を殺害して総額三億の貴金属を強奪。現在も逃亡中」

「それだけの能力がありながら強盗殺人とは、理解に苦しみますね」

「金遣いが荒くて、借金を恒常的に作る天才だったみたい。金策に困り果てた末の凶行って奴」

 思わず青年の口から嘆息が漏れる。その後は疑問の言葉。

「こういうのは警察の仕事じゃないですか?」

「その警察から五人も死傷者が出れば、回ってきちゃうものよ」

 宗二朗が書類の一枚に目を通すと、薫の言葉どおり、三人の死亡者と二人の重傷者の名前が記されている。

「これ以上自分とこに被害を出したくない。でも、犯人を野放しにはしておけない。そんなときに、私たち民間の霊術士の出番って訳」

「都合の良い話ですね」

「それで食ってるから、文句は言えないけどねぇ」

「確かに。で、目標の霊術系統は?」

「貴方と同じ二振りの霊術刀が得物で、水操系と生体強化系を得意としてるみたい。水葬士の称号を得ているね」

「でしたら、今日の夕刻までには捕縛したいですね」

「? なんで?」

 薫の疑問に、宗二朗は人差し指が示すもので答える。

 店のどの角度からも見ることができる天井の隅に設置された、受像機だ。

 放送されている内容は天気予報。島国である倭国全体と美人の女性天気予報士が並んで映像に映っている。

 雨天を表す開いた傘が、東京周辺に乱立している。

「今日の夜から週末まで高確率で雨模様。水操系霊術士にとっては最高の状況です」

 自分たちにとっては最悪の状況だと言っているのだ。

「鋼鐵系を扱う彼、キムンでは水操系を使う相手の力を助ける。予報どおりの天候ならば、然程変わらないでしょうけど。

 雷電系の静さんの場合、有効的ですがこちらにも被害が及ぶ危険性が在る」

「確かに、感電しちゃうよねぇ」

 薫の口調は軽いが、真剣さを保ちながら相槌を打つ。同時に静も黙って頷いた。相変わらずキムンは無反応。

 宗二朗は更に続ける。

「今回使える人は居ませんが、水操系に最も効果的な霊術は地霊系ですが、やはり雨天に於いては効果は薄いでしょう。

 この状況での理想は、屋内を戦場にするのがいいでしょう。少しでも相手の霊術の威力を抑えられますし、雷電系を扱えるのが一番の利点です」

「見事な作戦立案、うちに欲しい人材だね」  薫の賛辞に薄い微笑で返す宗二朗。

「さっきから食べてばかりだけど、キムン君は判った?」

 暫く食事に無心していたキムンが皮肉の笑みを口の端に乗せ、そのまま炭火で焼いた鳥の手羽元の肉を噛み千切る。

「つまり、炎熱系しか能がない貴様には最悪という訳だ」

「……まぁ、そうだね」

 意訳し過ぎた答えに宗二朗は歯切れ悪く返し、運ばれてきた目の前のサラダを口にした。



 天気予報は、見事に的中した。いや、半分的中したというべきか。

 食事を終えて店を出た頃から既に降り始めていた小粒の雨は、大きな雨粒となって視界を閉ざすほどに絶え間なく降り注いでいる。

 風も強くなり、天候は嵐の様相も見せてきた。波は荒れ、大きな波となると防波堤を越えてコンクリートで埋め立てられた大地を雨と共に濡らしていく。

 それらの様は、この島国を海に沈ませるかのようだった。

「これで、貴様は役立たずになった。帰ってもいいぞ。むしろ帰れ」

「一度請けた仕事を投げ出す気は無いよ。第一、打ち合わせでも想定していた状況だ、問題ない」

 その豪雨の中、三人の追跡者の姿があった。

 雨除けの頭巾(フード)がついた外套を纏った宗二朗。背に霊術大刀を担ぎ、既に積層金属鎧を展開しているキムン。昨夜と同様、戦闘服に身を包み、腰の後ろに霊術小剣を携えた静。

 東京の南に位置する第一埠頭。嘗ては貿易商社らが管理していた旧式の倉庫が、幾つも連立する寂れた倉庫街。

 再開発が計画されているものの、未だに着工すらされていない見捨てられた場所。

 その中の一つの倉庫に、彼らは居た。

「で、目標は此処に?」

 宗二朗の問いには、キムンではなく静が答える。彼もそのつもりで彼女に訊いたのだが。

「所長が懇意にしている情報屋から得たものです、間違いありません。情報の正確さだけは確かですので」

「正確さだけ?」

「報酬次第でどのような情報も流すので、心からは信用できません」

 宗二朗は、心の中で納得する。そして気を取り直すように言った。

「この状況で水操系霊術を使われたら、一溜まりもない。目標を発見次第、手筈通りに」

 静は頷き、キムンも渋面を作りながらも了承する。

 まず、目標である原木健三を手分けして捜索、発見後に連絡、集結。

 展開と攻撃速度で優る静の雷電系霊術で奇襲し、近接戦闘能力に優れるキムンと宗二朗で無力化して捕縛する。

 単純な作戦ではあるが、現状で取れる最良の作戦だ。

「では、散開」

 何処か手馴れた様子で指示を出すと、彼らは猟犬となって吹き荒ぶ雨風の中に散っていった。



 捜索を続けながらも、宗二朗はこれから対峙する目標を思い浮かべていた。

 高位霊術士は、人類の中で最強の部類に位置する者となる。

 中には、この星最強の生命体である龍をも単独で殺す戦闘能力を持ち得る者も存在する。

 その力を身近に感じたのは遠い過去になるが、原木健三がそうでないことを、切に願った。

 宗二朗が十棟目の倉庫を調べようと錆び付いた扉を開けようとした時、何かを肌が刺す感覚が全身に叩きつけられてきた。

 それは霊子が紡がれ、霊術が発動するときに感じられる波動。剥き出しの殺意が、霊術という形となって顕現されたのだ。

 宗二朗は即座に体内通信を使い、事前に聞いていた静の番号にかける。

 幸いにも、彼女は真っ先に出てくれた。

(先ほど霊術の発動が確認できましたが、原木に見つかってしまったんですか?)

(目標を発見しましたが、キムンが飛び出してしまいました。第六区画の七番倉庫です、急いでください)

 骨伝導を通して伝わってきた静の言葉に、軽い頭痛を覚えたように顔を顰める。余程の対抗意識があるらしい。

 こんなときにまで私情を持ち込むとは。

 呆れて物も言えず、宗二朗は今日何度目かの溜息を吐き、豪雨の中を駆けた。