03.真名

 叩きつけてくる風雨を物ともせず、宗二朗は走る。

 目的の倉庫に辿り着くまでに再び静と連絡を取ろうとしたが、繋がらなかった。

 不安を駆られるが、幸いにも彼らが居るであろう倉庫はすぐに見つかった。

 出入り口である扉は施錠されていたのだろう、扉は力任せに抉じ開けられ、打ち捨てられている。

 二度と閉まることの無い出入り口を潜り、中へと進入する。

 見捨てられたコンテナが多数鎮座する内部を、今にも役目を終えそうな非常灯の群れが弱々しく闇を押し退けていた。

 突如、闇を切り裂く電光が、物々しい音と共に弾ける。その後に続いたのは、女性の短い悲鳴と硬質な物体が床を転がる音。

 一瞬の光と音を頼りに内部を進むと、黒蛋白の双眸が静の姿を確認した。

 今正に、命を狩られようとする静の姿を。

 得物である霊術小剣を無くして尻餅をついた形で倒れている静に、蛇の如くうねる刀身を持つ刀を二振り手にした男が詰め寄っていた。

 今回の目標である原木健三だ。数時間前に写真で見た表情とは違い、狂気の色がその顔に貼り付けられている。

 霊術の防護服は逃走と、それに伴う戦闘によるものか。ある場所は返り血で薄汚れ、ある場所は襤褸布のように破れている。左手にある刀は、半ばから折れていた。

 そして右の刃が振り上げられ、何の躊躇も無く、殺意に歪む刃が振り下ろされる。

 宗二朗は瞬時に真紅の刀を抜刀し、渾身の力を込めて投げ放った。

 肉体強化によって放たれた刀は弾丸にも匹敵する速度で飛翔し、静の頭上を通過してすぐ側の壁に突き立つ。

 静の命を奪おうとする刃は、壁に突き刺さった刀によって阻まれて停止する。

 突然出現した刃に驚きを隠せない静と原木が視線を向けると、宗二朗が今にも原木に拳を振り下ろそうとしている姿が、文字通り跳び込んできた。

 咄嗟に全身を反らせて拳打を回避すると、右の刃で反撃に転じる。

 宗二朗は振り抜いた拳とは異なるもう一方の手で突き刺さった刀を引き抜き、自らに振り下ろされる刃を打ち払う。

 火花が咲き、弾き飛ばされた原木は乱入者を射殺すかのように睨み付ける。

 宗二朗は彼の眼差しを逸らさずに受け止め、静を守るように刀を構えた。

 数秒間の睨み合いが終わると、闘争劇の幕が上がった。

 互いの得物が相手の血肉を欲するかのように、高速で振るわれる。だが、その得物を手にする狩猟者はそれらの軌道を読み、紙一重でそれぞれの斬撃を回避する。

 代わりに二人の暴風圏に不運にも入り込んでしまった床や壁やコンテナな傷つき、生々しい刀傷が刻まれていく。

 情報どおり、原木は五人の霊術士を殺害するほどの戦闘能力を有していた。

 昨夜、キムンとの壮絶な斬り合いを演じた宗二朗と、ほぼ互角に斬り合っているのだから。

 しかし、左手の刀は既に死んでいる。それが決め手となった。

 その刀で袈裟斬りに振り下ろされる宗二朗の斬撃を受け止めようとするが、死した刃が、今も爛々と赤光を放ち続ける生きた刃を止められる筈もなかった。

 紅の切っ先が刃を粉々に打ち砕くと共に、原木の胸板を斬り裂く。奇しくも粉砕した刀が盾となり、威力を軽減された斬撃が浅く入っただけだが、宗二朗の刃は確実に届いた。

 斬撃と灼熱。二重の痛みに襲われた原木は後退して距離を取り、霊術を高速で幾つも発動する。

 自らの眼前に映し出される、水色の霊子が紡ぐ構成陣。それは幾つにも重なって紡がれ、人間の頭部ほどの大きさの水球が構成陣の数だけ形成される。

 水操系霊術第二階級《水圧弾》の多重発動。高位霊術士ともなれば一度に多数の霊術を発動することも可能となるのだ。

 第二階級という低位霊術ではあるが、それでも受ければ骨折ぐらいは引き起こす。

 弾道からの回避は容易であるが、宗二朗の後方には静がいた。宗二朗の脳裏に回避の選択肢も一瞬過ぎるが、すぐに掻き消えて迎撃の選択が現れる。

 構成陣を瞬く間に組み上げ、即座に霊術を展開。構成陣が宙に浮かび上がると七つの白き焔が生まれ、それは薄闇の倉庫を照らす。

 炎熱系霊術第五階級《七滅焔劫砲》。一発で一千度にも達する高熱の炎の砲弾を一斉に放つ、強力な高等霊術。

 《業炎破吼》を強化したこの霊術は、全ての砲弾が爆ぜれば西洋竜の鱗すら焼き尽くすことができる地獄の業火だ。

 水と炎の砲弾が激突するが、如何に水が火を消すと言っても焼け石に水。水は文字通り一瞬で蒸発し、無為な霊子となって掻き消えた。七つの焔の勢いは尚止まらず、壁へと激突する。

 倉庫全体を襲い、揺るがす衝撃と轟音。

 生じた埃と黒煙が払われると、威力の凄まじさを物語る光景が広がった。

 過剰な熱量と衝撃は倉庫の壁をいとも簡単に吹き飛ばし、黒く焦げ、隣接する倉庫の壁すら破壊していた。

 その破砕された壁から、原木が外へと駆け出す姿を捉える。

 宗二朗はそれをすぐに追わず、後方に居る静に歩み寄り、語りかけた。

「大丈夫ですか?」

 その言葉に、彼女は首を縦に振る。深く切り裂かれた左腕から血を流しているものの、それ以外には目立った外傷は無い。

 彼女の視線を追うと、キムンの姿を捉えた。自身が流した血液で作られた、赤黒い水溜りに横たわる彼の姿を。

 展開していた《鋼装殻鎧》の金属積層鎧が所々融解し、鎧としての意味を無くした鉄屑と化している。

 そこから露出した肉体も一部焼け爛れているが、最も多いのは刀傷だった。その傷はどれも深く、内臓に達している。

 側に突き立つ大刀が彼の墓標のようにも見えるものの、血塗れになっている鍛えられた厚い胸板が上下に動いているところを診ると、命は取り留めているようだった。

 しかし、危険であることには変わりない。破壊された兜から覗く表情からは血の気が失せ、漏れ出る吐息は血臭を漂わせていた。

 宗二朗は即座に止血霊術を発動させる。

 穏やかな光を放つ構成陣が傷口を塞ぎ、溢れ出る血流を止める。更に増血霊術を以て失われた血液を体内に巡らせていき、徐々に血色が良くなっていく。

 更に静かの左腕の傷も癒すと立ち上がり、踵を返す。

「俺ができるのはここまでです。静さんは病院に連絡を。俺は原木を追います」

 その言葉に、静は不安そうな眼差しを向ける。

「このまま逃がす訳にはいかないでしょう。では、彼を頼みます」

 無情だが、言葉を残して原木を追うために外へと走る。だが、焦げて燻る破壊された壁を越え、雨風が激しい外へと出た直後。

 液体が目の前に迫っていた。自然による雨水でも海水でもない、敵意を持った液体が。

 宗二朗は咄嗟に身を屈めて飛来するそれを避けると、コンクリートの壁にぶつかって弾ける。腐臭と白煙を発しながら、壁が無残に焼け爛れていく。

 強酸性の液体を対象にぶつける、水操系霊術第四階級《溶水酸弾》。これがキムンの《鋼装殻鎧》を溶解させたのだ。

 液体の軌跡の先には、原木の姿があった。充分に逃走する時間はあった筈だが、確かに原木の姿がそこに在る。

 彼は小さく舌打ちをすると、すぐに霊術を発動した。

 再び多数の水の砲弾が形成されるが、その数は先ほどよりも多い。

 万象霊術は、気候や周囲の環境に影響を受け易い。

 倉庫内部のように湿気だけが立ち込めた空間ならまだしも、今のように雨風が強い状況では炎熱系霊術の発動そのものが難しくなる。

 先のような高位霊術の構成陣の場合、組み上げるだけでも通常時に比べても困難となり、展開・発動させるには更に難度が上がる。

 逆に水操系霊術ならば、原木が今行っているように容易く発動できる。それも、何時もよりも多く。

 機関砲の如く迫り来る数多の水の砲弾を次々に掻い潜り、原木へと接近していく。

 もう一歩踏み出せば間合いに入るところで、不意に自分の意思に反して左足が動きを止めた。

 水操系霊術第二階級《水粘縛》の、強力な粘性を持つ液体が宗二朗の左足に絡みつき、地面と繋ぎ止めている。

 構成陣を予め展開し、隠蔽しておく。そして目標がその場に踏み込めば発動する、単純ではあるが効果的な罠を。

 左足に霊子を集中させ、一時的に筋力を増大させて戒めを一気に引き千切る。

 動きの抑制は一瞬にも等しい短い時間ではあったが、原木にとっては充分な時間でもあった。

 対処が遅れた宗二朗は何とか回避に移るものの、翻る刃が右腕を裂いた。途端、彼の右腕から力が抜け、垂れ下がる。

 宙に舞った血飛沫は降り注ぐ雨に溶け、腕を伝って流れ出る血の熱さも瞬時に失われていく。

 瞬時に自己診断すると、傷は骨まで達している。神経も寸断され、刀を握っているのが奇跡的な状態だった。

 霊術による治療を施せばすぐにでも完治するものではあるが、状況がそれを許さない。

 肉体再生には多大な集中力を有し、本格的な治療霊術を発動すれば、その隙を見逃さないだろう。

 宗二朗は内心で毒づき、自分の腕が相当鈍っていることを身を以て悟った。

 左足を囚われ、更には右腕を負傷するという失態。

 強く握り込んだ左の拳が、原木の顎を打ち付けた。骨が砕ける感触が伝わり、彼を大きく仰け反らせる。

 振り抜いた拳はすぐに戻り、右腰にある刀の柄に伸びるが、抜くことを躊躇した。

 その逡巡を突いて態勢を整えた原木が、再び刃を振るう。

 横薙ぎが宗二朗の首筋へと走り、後ろに半歩退いて避ける。だが、原木はすかさず間合いを詰める。

 同時に放たれた高速の蹴りが、胸部を急襲する。

 その威力は激しく、靴底が胸にめり込んで骨が砕け、右手の刀を残して宗二朗の身体を浮かして彼を暗黒の海へと叩き落した。

 飛び込んできた獲物を逃すまいと、波の顎が彼の身体を捕らえる。

 更に原木は霊子を紡ぎ、霊術を放つ。海面に輝く構成陣が浮かび上がると、そこに激しい流れの渦が生まれた。

 水操系霊術第四階級《水流檻渦》が作り出した、水中の牢獄。対象を溺死させるこの霊術によって、宗二朗は冷たい闇の中に囚われた。

 激しい流れに弄ばれる中、自由が利く左手が遂に右の腰に差している刀を抜いた。それは昏い水中でも尚輝く、蒼穹の輝きを放っている。

 そして、その輝きが一段と力強くなったとき、逃走を図ろうとする原木の足が不意に止まった。

 ゆっくりと振り返ると、彼の顔が驚愕の色で塗り潰される。

 彼にとって、有り得ない存在を目撃したからだ。

 荒れ狂う海へと投げ出された宗二朗の身体が、海底が隆起しているかのようにゆっくりと水面から現れる。

 奇妙なことに健三が発動した《水流檻渦》によって荒れていた海面が、波一つ起きない穏やかな表情を見せていた。

 そして青年は、立てる筈の無い水面に立った。左手に海の澄んだ青さをそのまま刀身に映したような刀を手にして。

「余り使いたくなかったんですが、仕方ないですね」

 宗二朗は、心底そう思っていた。

 できることならば、この力は使いたくない。そう願う想いが彼にはあった。

 そんなことなど知りもしない原木は折れんばかりに歯噛みし、何度目になるか判らない霊術を発動するため、霊子を紡ぐ。

 自身が扱える最大の霊術、水操系霊術第五階級《水裂圧殺刃》が展開される。

 高圧で撃ち出された水は、鋼鉄すら両断することができる。この霊術はそれを可能とするものだ。

 真っ直ぐ、そして高速で伸びる水の切っ先が目標を切り刻もうと肉薄する。

 それに対して宗二朗は、蒼穹の刃を盾のように眼前に掲げるだけ。だが、それだけで水の刃は無害な飛沫となって飛び散り、雨と海に溶けて消えた。

 またしても目の前で起きた信じられない事実に、原木は思わずたじろぐ。

「自分だけが優れた霊術士だと思わないことです」

 その言葉は、自分が原木以上の水操系霊術の使い手だと証していた。

 それは有り得ないことだった。

 霊術を扱う者にも、得手不得手がある。それは自身が宿す霊子によって左右される。

 万物を構成し、宿る霊子。それは人間にも当然のように存在しており、自らと言う存在を構築しているともいえる。

 宗二朗が宿している霊子は、様々な恩恵と災厄を齎してきた火。炎熱系霊術を最も得意とし、次いで鋼鐵系霊術を扱える。対して、水操系霊術を最も不得意とし、発動すらできない。

 その彼が相剋関係に在る水操系霊術を扱うことは、理論的にも物理的にも不可能である。

 霊術具を使用すればある程度の霊術は行使することもできるが、第五階級ほどの霊術を無効化できるものは殆ど無い。

 だが、彼は今、水操系霊術を使おうとしている。それも、極めた者だけが扱うことができる秘奥とも言える高等霊術を。

 闇が支配しつつある世界の中で、水色の光が紡ぐ構成陣が輝く。光は堰を切るように徐々に強まり、発動のときを待つ。

 それは下位の霊術を生み出すものを遥かに複雑化し、膨大な霊子力によって構築される第六階級霊術の構成陣。

「喰らい尽くせ」

 光を射さない深海の底から響くような昏い言葉が嚆矢となり、霊術が発動される。この場にある全ての水が、宗二朗の僕となって。

 水操系霊術第六階級《水皇凶葬瀑手》。

 雨と海、そして霊術によって生み出された膨大な量の水が、意志のある荒れ狂う波濤となって襲い掛かる。

 全てを飲み込まんとする津波を、原木は横に大きく跳んで回避する。

 倉庫の壁にぶつかる筈の津波が、突然の軌道変化。波頭が触手の如く幾多にも分かれて獲物を追う。

 そして、捉えた。

 水の触手は原木を激しく打ちつけ、その肉体を破壊していく。何度も、何度も、何度も。

 連続する凄まじい圧力に襲われる原木に、為す術もなかった。抵抗することもできず、無残なまでに陵辱されていく。

 全ての触手が獲物を弄ぶのに飽きたのか、水は彼を中心に巨大な球体を形成していく。

 限界にまで膨れ上がった水球。それは、一気に弾け飛んだ。

 生まれた衝撃は倉庫を飛沫は痛いぐらいの速度で大地に叩きつけられる。

 水の蹂躙はそうして漸く終わり、意志を持たない只の水となって大地に広がって海へと還っていった。

 霊術の水面から跳んで大地に着地すると、徐に歩き始める。

 途中、大地に刺さったままの真紅の刀を蒼穹の刀の切っ先で鍔に器用に引っ掛け、宙に飛ばす。

 緩い回転をしながら落下してくる刀に対して宗二朗は身体を横に傾けると、見事に左の腰の鞘に収まり、小気味よい鍔鳴りを響かせる。

 原木は倉庫と倉庫の間で、壊れた人形のように仰向けになって倒れている。衣服の殆どが破れて腕や足があらぬ方向へと折れ曲がり、折れた骨が肉と皮を破って外に露出していた。

 未だに手にしている刀も、柄だけを残して完全に破損している。修復は不可能だろう。

 僅かに動く瞳で宗二朗の姿を見つけると、歯と歯が不明瞭な旋律を奏でる。

 死神の鎌のようにも見える弧を描いた口唇が、言葉を紡ぐ。

「殺しはしませんから、安心してください……って、聞こえていませんか」

 言い終わるよりも先に、原木は白目を剥いて卒倒した。激痛と恐怖が発狂しそうになる意識を途絶させたのだ。

 少し脅かし過ぎたか。だが、手加減したのは事実だった。

 もし、殺すつもりで先の霊術を放っていたのなら、原木の身体は見つけるのも困難なほど、微塵に砕かれていただろう。

 第六階級霊術という代物は、それだけの威力を持っている。

 本来は対軍隊殲滅や拠点攻撃などの多数の敵に、そして竜や巨人、魔堕などの人間よりも遥かに強大な存在に対抗するために生み出されたのだから。

 刀を鞘に戻し、その何万分の一程度の敵に背を向け、二人の元に戻ろうとしたそのときだった。

 雷にも似た、全身を貫く痛みが彼を襲った。

 切り裂かれた右腕でも、折れた胸骨が放つ痛みでもない。肉体だけではなく、魂にも響きそうな痛み。

 それは身体の自由だけでなく力さえも奪い取り、宗二朗は思わず膝を着く。咄嗟に左手が濡れた倉庫の壁に手をついて体勢を保つが、震える手では長く持たないだろう。

「久々に使った所為、か……」

 僅かに動く舌で自身に起きた事象を確かめた直後、遂に左手が身体を支えきれなくなってうつ伏せに倒れ込む。

 雨とコンクリートの冷たさを覚えながら、そのまま視界が黒く塗り潰され、意識も闇に落ちていった。

 完全に闇に包まれる前に聞いたのは、誰かの足音だった。



 雨に濡れる東京の街を、宗二朗は寝台に半身を起こして眺めていた。

 黄央区に置かれた総合病院の一室。そこに、宗二朗は入院している。

 あの戦闘から、一日が経った。

 倒れた宗二朗はその後病院に運び込まれ、治療を受けた。

 右腕の刀傷は既に治療され、軽く包帯が巻かれているだけ。

 繋ぎ合わせられた腱や神経がまだ馴染んでいないのか感覚が幾らか鈍いものの、日常生活には問題ない。折れた胸骨も既に修復され、筋繊維が僅かに痛む程度だ。

 現代の霊術治療は非常に技術が高く、程度の差はあれど交通事故を起こしても数時間後には帰宅できるほどである。

 余程深刻な病状――例えば、脳に重度の損傷などは別だが。

 今回の入院も大事をとってとのことで、明日退院の予定である。

 そういった事情で入院患者は少ない。病室だけでなく、病院そのものが静けさに包まれていた。

 その静寂を侵さぬよう、硬質な靴底が控えめに廊下を歩く音が響く。それはゆっくりと近づき、宗二朗の病室の前で止まった。

 そして、今度は扉を軽く叩く音。

 宗二朗が返事をしようとしたが、その前に扉の取っ手が回され、開けられた。

 礼儀正しいのかそうでないのか。

 手を軽く振る来訪者――光永霊術事務所の所長、光永薫の朗らかな笑顔を見ながら思った。

「もう帰ってきてたんですか?」

「心配だったからね、さっさと終わらせてきたの。杞憂で済んで良かったけど。で、調子はどう?」

「霊術の使い過ぎだそうです。今日一日安静にすれば退院できます」

「静ちゃんに礼を言いなさい。連絡してくれたのはあの子なんだから」

「そうですね。退院したら伺います」

「うん。それじゃ、約束の報酬」

 何も書かれていない簡素な封筒を手渡す。当然だが紙幣が収められているらしく、それは市販されている漫画の単行本ほどの厚さに膨らんでいる。

 その厚みが気になった。

 遠慮がちに中身を覗くと、紙幣の束。倭国で流通している紙幣で最も高額な一万円の紙幣が自身が想像していたよりも多く入っていた。

「こんなに貰っていいんですか?」

「それだけの仕事をしたんだから、正当な報酬でしょ」

「大事な所員が重傷でしたが?」

「キムン君のは自業自得だし、静ちゃんの傷も大したこと無かったからね。ちなみに原木も無事よ。霊術士としては再起不能だけど」

「そんなに酷かったですか?」

「肉体的にもそうだけど、精神的にも駄目ね。余程怖い目に遭ったみたい」

「少しやり過ぎましたか」

「さすがは南方戦役の英雄、《双刃》ってところ?」

 唐突過ぎる薫の言葉は、宗二朗の心臓を鷲掴みにし、呼吸すら停止させた。

 否定の言葉が頭の中で幾つも作られるが、とうとう口では紡がれることはなかった。

「何のことですと言っても、白を切り通せませんか」

 頭を掻き、諦めが込められた溜息を吐いた。

「どうやって調べたんです? 襤褸は出していないと思うんですが」

「蛇の道は蛇って奴よ」

 そう言って薫は胸のポケットから一枚の紙切れを取り出し、そこに書かれている内容を読み始めた。

「本名は火野双真。西京にある火野家の嫡男で、御父上は陸軍幕僚次官の火野総一郎氏。

 十八歳で豊葦原学園高等部を主席卒業して軍に所属。二十歳で高天原の首都防衛隊に配属、そのときの功績が認められて名霊術刀・焔魂を授かる」

 一区切りを打って宗二朗を見やるが、彼は視線を以て続きを促す。その表情は、若干曇っていた。

 それに応え、薫は続ける。

「その数ヵ月後、南方戦役の緒戦、柱女の島の戦いに於いて千にも上る崑崙の軍勢を僅か一人で退けるという快挙を為した。

 二振りの刀を手にして修羅の如く敵を屠る様から、《双刃》と渾名されるようになる。

 その後も各地を戦いに貢献。最年少の名誉勲章授与を果たす。

 しかし、直後に軍を脱退して失踪、神名宗二朗と名を変えて各地を渡り歩く、と」

 そこまで聞いて、宗二朗は本日二度目の溜息を吐く。感心と嘆きが混同した、重々しい溜息を。

「よくそんなに調べましたね」

「お陰で報酬の何割かは持っていかれたわ。それだけの成果はあったけどね」

「まさか、それを調べる為に今回の件を?」

「まあね。けど、仕事ができたのは本当だし、あの夜遇ったのも本当に偶然。そして猫神亭で遇ったのも偶然。嬉しい偶然の連続って奴よ」

「俺にとっては悲しい偶然の連続ですがね。で、そこまで調べてどうするつもりです? 軍にでも知らせますか?」

 宗二朗の言葉を、首を横に振って否定する。

「率直に言うわ。うちで働かない?」

 出た答えに多少の驚きを覚えつつも、宗二朗は平静を装って薫の言葉を聴き続ける。

「実は先日、うちから独立した子が居てね。彼が抜けたのはちょっと痛くて、有望なのを探してたところ」

「その穴埋めですか?」

「埋めるどころか、盛り上がると思うけど」

 沈黙が、数分間室内を支配する。

 それは宗二朗の答えによって破られた。

「……少し考えさせてください。急には決められないんで」

「ま、急な申し出だからね。でも、できるだけ早く決めて。さもないと、勝手に協会に申請するから。新聞社や報道関係者にも密告するから」

「それは怖い」

 思わず苦笑する。

 この人ならばやりかねない。自分の経歴をここまで調べ上げたという、前科があるのだから。

「用件はそれだけ。じゃ、お大事に」

 薫はそう言い残して病室を後にし、外に雨の中でも目立つ赤い傘を持った彼女を一抹の不安を胸に秘めながら見えなくなるまで見送った。

 すると、力が抜けたように寝台に身体を預ける。

 横になった宗二朗が、ふと側に立てかけてあった二振りの刀の一方、蒼穹の刀身を持つ刀を手に取った。

 ゆっくりと鯉口を斬り、蒼の刀身を覗くと、淡く刻まれた東洋の龍がその姿を現す。

「どうしますか、水姫」

 蒼き龍を見ながらひとりの女性の名を呟いて数刻後、刀を元の場所に戻して瞼を閉じる。

 まだ日が高く、寝るには早い時刻ではあるが、睡魔に襲われた彼はそのまま身を委ねた。

 そして、夢を見る。

 自身が今以上に若く、火野双真という一人の軍人だった頃の夢。そして神名宗二朗が生まれた頃の夢を。